歓喜寺について
東光山無量院と号し、天台宗の寺院である。
嘉祥二年(850)延暦寺座主円仁(慈覚大師)東国順化の途中、上総の本納に仏堂を建立し、本尊阿弥陀如来並びに観音勢至の両大士を安置する。
長享二年(1488)土気城主酒井定隆による七里法華の改革で、現在の地睦沢町寺崎に移転した。
こうして数百年の間に寺運は栄え、数々の伽藍を築き上げてきたが、享保九年(1728)火災により灰燼と化した。
時の住職家順が再建を企て同 13 年(1728)現在の堂宇を建立した。
また江戸時代には徳川将軍家から御朱印状を拝領しており、徳川将軍が大名や寺社に領地を与えた文書で、文書の奥に朱肉の印を捺した。
嘉祥二年(850)延暦寺座主円仁(慈覚大師)東国順化の途中、上総の本納に仏堂を建立し、本尊阿弥陀如来並びに観音勢至の両大士を安置する。
長享二年(1488)土気城主酒井定隆による七里法華の改革で、現在の地睦沢町寺崎に移転した。
こうして数百年の間に寺運は栄え、数々の伽藍を築き上げてきたが、享保九年(1728)火災により灰燼と化した。
時の住職家順が再建を企て同 13 年(1728)現在の堂宇を建立した。
また江戸時代には徳川将軍家から御朱印状を拝領しており、徳川将軍が大名や寺社に領地を与えた文書で、文書の奥に朱肉の印を捺した。





